四日市 萬古焼の窯元から焼きたてのグラタン皿を直送

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萬古焼とは

独特の質感の急須や茶碗で全国に知られる萬古焼は、江戸中期東西交易の中継点であった伊勢地方で桑名の豪商・沼波弄山が、京焼に技術を学んで開発し、作品が末永く残ることを願い捺した印章「萬古不易」がその名の由来といわれています。色絵陶器ながら京焼の繊細さとは異なる独自の情緒的な表現で、煎茶の流行とともに明治以降は四日市の地場産業として栄えました。

≫萬古焼の系譜  ≫萬古焼年表  ≫萬古焼とその周辺  ≫伊勢における萬古焼の分布

古萬古

萬古焼は、江戸時代中期の元文年間(1736-1741)に桑名の豪商・沼波弄山(1718-1777)が、別邸のあった小向村(現三重郡朝日町)に窯を築き、作陶を始めたことを起源とします。満古焼の名は弄山が、作品が末永く伝世することを願って高台周辺に捺した「萬古」あるいは「萬古不易」の印に由来し、弄山は、日本各地の陶器の他中国陶器も研究し、異国情緒豊かな意匠も取り入れた各種茶碗を多く作って人気を博しました。後世再興された萬古焼と区別して、弄山が制作した萬古焼は「古萬古」と呼ばれています。後に弄山は江戸向島小梅(現東京都墨田区)の別邸にも窯を開いて製陶を続けました。

古安東・阿漕焼

安東焼は開窯年代について諸説があり、3回以上の興廃を経ており、作品の変遷が不明瞭です。最初、津市長岡字小山田に築かれ、陶工瑞牙を絵付師服部十左衛門が活動して十数年間続きました。次に津市観音寺東の愛宕山西に移り、文化・文政のころに焼きました。作品は雅味に欠けるところがあり、多くの作品が遺存しています。この頃までにの作品を古安東と称しています。古安東は古萬古の作風に似ているものや無釉の素地に色絵付けされたものが存在し、片彫り文様に優れている作品があります。天保年間には岩田橋の東南、船頭町の藩の馬場のあった馬場屋敷近くに移り、この地が阿漕浦に近いところから阿漕焼と称されるようになりました。

有節萬古

有節萬古は森有節・千秋兄弟により天保3年に古萬古の故郷、小向村で始められ、古萬古写と楽・志野・織部・唐津・高取などの諸窯写が多く存在しています。有節萬古は特有の腥臙脂釉があらゆる器物の色絵文様の中心として使われ、急須は独自に考案された木型造りで内面に龍文を施す工夫をするなど、創作的な作品が数多く存在しています。作品は轆轤による底部の箆削りに特徴が認められ、底部中心の渦削りや周辺よりの半周ほどの丸削りなどは有節萬古に特有の成形技法です。

射和萬古

射和萬古は古萬古の陶法を引き継いで安政3年に開窯し、文久3年に僅か7年にして廃窯してしまいました。作品は鉄釉・灰釉と青磁・乾山・信楽などの写し物があります。

四日市萬古

四日市萬古は、嘉永6年(1853)に、明治4年に桑名から堀友直が移るなど次々と窯が興り、生産を拡大して全国の需要に対応しました。四日市萬古の製法は手捻り、木型、轆轤の3方法が用いられています。手捻りは渡辺自然斉(蓮隠居)、岡本城峯(無限楽)、山本利助(萬里軒)、伊藤豊助(晩成堂)、小川半助(円相舎)、伊達嘉助(日出野)、富山士郎(黒木舎)、木型造りは伊藤庄造、伊藤弥三郎(八三)、中山孫七、花井新兵衛たち、轆轤造りは益田左造、益田仙吉、圦山開之助、石田栄吉、後藤隆政、生川善作、練り込みと切り填め技法を考案した谷村太右衛門(合羽屋9、絵師は田中百桑、水谷百碩、坂井桜岳たちが有名です。

 
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